千紫万紅、柳緑花紅

    幕間 (お侍 extra)
 


     
忙中 閑あり



 虹雅渓の最下層部にある“癒しの里”は、最初の章でも述べたが、差配の権勢も届かぬとされている、一種の治外法権がしかれた歓楽街で。よって権力の専横も、ついでに浪人や侍の帯刀も、此処では原則ご法度となっている。も一つついでに身分や肩書きも、やたら振りかざすのは野暮とされ、名前なんて身分なんてどうだっていいじゃござんせんかと、男と女がただ一夜の契りを交わす、夢のような蜜夜を過ごすために必要な、お茶屋や置き屋、所謂“花楼”が軒を並べる、言ってみれば花街色街でもあって。不倫・背徳、様々に、綾なす秘めごとを覆い隠すためにと降りてくる、夜の帳
(とばり)を迎える夕刻になると。それまでぼんやりと白けていたこの街は、それは俄に色めき立ってその活気を取り戻す。遊郭では芸者衆が“すががき”と呼ばれる三味線を弾く。すると、それを合図に着飾った太夫たちが紅柄格子の向こうへと出て来て嫣然と構え、客からの品定めを待つ。これを“張り見世”といい、緋毛氈を敷いた部屋に、高々と結い上げた髪を鼈甲や漆の艶やかなかんざしや笄(こうがい)で飾り、金銀錦の縫い取り刺繍も豪奢な打ち掛けをまとった花魁や、大きくうなじを見せた抜き衿も艶っぽく、その襟足もまだ瑞々しい新造衆らがそこここに座し、あだな流し目と一緒に吸いつけ煙管を誘うよに差し向ける。勿論のこと、遊女屋しかないわけじゃあなく、粋で酔狂な遊びをしにと、趣味人や分限者・金満家が会合を兼ねての豪勢なお座敷を張るのもこの里で。金の力で夜更けに“真昼”を買える彼らは、美しい太夫や取り巻きを侍らせ、美酒に御馳走、今一番に流行の趣向をふんだんに集めての豪勢な宴を張り、その権勢を世間へと高らかに誇示して見せては、その溜飲を大いに下げる。

  「…おや、お帰りですね。」

 まだ明るい方だが、これも風情を醸す小道具のうちなのか。それとも、今のうちから夜と昼とを曖昧にしておこうという趣向なのか。辻々のぼんぼりに灯が入り、すががきの三味線の音があちこちの店から聞こえ始めた夕まぐれ。店の門口に立ってお早いお着きの贔屓筋を丁寧に迎える素振りをしつつ、その実、どこか身の入らぬ態でそわそわと。時折爪先立ってまでし、道の向こうを首を伸ばして見やっていた、三本まげの長身のご亭。少しずつ密度を増し始めた雑踏の中に、やっとのお目当てを見つけると、ほっとしたようにその表情を和らげた。そんな彼へ、
「主人がわざわざの出迎えか?」
 今からが稼ぎどきで忙しいのだろうにと、やっと戻った蓬髪の壮年が、味のある精悍なお顔へ苦笑を浮かべもって声をかければ。
「何の、ウチみたいな客商売の店ってのは、日々の商いは女将が看板になり柱になって回すもんでしてね。」
 ひょいっと小粋な所作にて肩をすくめ、目顔で“こっちを通り抜けて行きましょ”と、前庭を母屋までと先導するよに促してから、
「アタシら男主人ってのは、顔出すだけでも野暮の骨頂ってやつでしてね。元来、ここぞって荒ごとでも起きない限り、日頃は全く役に立たないもんなんですよ。」
 客へと向ける愛想の笑みとは、格段に温度が違う微笑をたたえて、そんな風に応じた七郎次だったが。どうしてどうして、その甘やかに端正なお顔といい、粋で気の利く気立ての良さといい、半端な芸者衆よりも好かれること間違いなしと思われるのだが。そんな若主人、振り向いたついで、勘兵衛の後に続いていた金髪痩躯の青年へは、その眉根をわざとに寄せて見せると、
「心配しましたよ? 刀を置いて行かれるなんて。」
 出掛けたのは知っていた。行き先へは心当たりもあって、わざわざ見送ったりするのは罰が悪かろと気を回し、さりげなく席を外していたものの。戻ってみれば座敷にはあの双刀が床の間の柱に立て掛けられたままであり、それを見てどれほど驚いた七郎次だったことか。いくら慣れた街で、その上、腕に覚えがあるって言ったって、どこにどんな無体な無法者がいるかは知れぬというもの、
「警邏隊本部なんてところ、武装をして行っては警戒されるとお思いでしたか?」
 久蔵へ兵庫に逢いに行けと言ったのは自分だが、まさかにそんな…丸腰で向かおうとは思わなかったものだから。どれだけ案じたかをついつい口にしてしまう彼であり。茂みの小枝に絡まぬよう、羽織りの袖をちょいと引き。母屋に接した、家族だけが出入り出来る中庭へと続く枝折戸を押し開きつつ、
「勘兵衛様もそりゃあ心配なすっておいでで。」
 案じるなどと余計な杞憂ぞと、久蔵が機嫌を損ねるとでも思ったか。それとも、自分だけが心配した訳じゃあないんですよと言いたくてか。ちょっぴり眉を下げながら、心配性仲間にしようと傍らの主様を引き合いに出せば。そんな意へは結構聡い主様には珍しくも通じなかったか、
「おいおい。早よう迎えに行けと急っついたのはお主だろうが。」
 出掛けて半時も経たぬうち、兄様がいないとカンナが愚図ったらどうしますかとまで言い立ておったくせにとの、思わぬ反駁が返って来たので、
「そう言う勘兵衛様こそ、気もそぞろに庭の方にばかり眸をやっておいでで。」
 そうかと思えば、3年経っても気にかけているとは、あれは余程に気に入られておったのかの、だなんて。引き留められてそのまま戻って来ないのではとでも言いたげなご様子だったじゃありませぬか…と。どういう種類の強情を張ってのことやら、何だかややこしい舌戦に発展しそうな雲行きになって来た模様。
「…。」
 当人たちにしてみれば、ちょっとした軽口の叩き合いなのかもしれないが。心配したのがいけないかのような言いようは、槍玉に上げられている当の本人を前にして、いささか…いやいや随分と大人げがない所業。よって、

  「いい加減にしないか。」

 そんな二人の背中へと向けて、ちょいとドスの利いた低い声を放った久蔵であり。思わぬ声の乱入に、
「…え?」
 保護者二人がそろり肩越しに振り返れば。心持ち 顎を引いての上目使いが、いかにも愛らしい…どころか、目許ぎりぎりの長めの前髪の陰から、鈍く光って射貫くような鋭さとなっている赤い双眸が何とも恐ろしい、お怒りに尖らせた表情を見せての威嚇の構え。
“おっとぉ…。”
 いかにも玲瓏で臈たげなという、華やかな描写ばかりを連ねて来たものの、そこは彼だとて立派な“もののふ”であり。さすがは南軍の間で…雷電型機巧侍の百機ほどが一斉に襲い掛かって来ても動じぬままに迎え撃ち、たったの1シークエンスにて見事平らげたとの伝説も実
(まこと)しやかに語り継がれる、金髪紅眼の天穹の死神様。ただの一瞥でも、そこに何らかの意志が籠もれば迫力が違う。わたしを巡って争うのはやめて…もとえ、人をダシにして遊ぶなと言いたいらしく。それにしては、

  「今、刀が手元にないことを、その身の倖いと思え。」

 片や後生の伴侶を、そして片やあれほど慕っていた母上(?)を相手に、そこまで怒っているのでしょうか、次男坊 転じて若奥様。陽が落ちても暮色の中にはんなり甘い温みの残る、春も盛りな頃合いだってのに。空中にぴきりと薄氷が張ったかもしれないほどの寒々しさにて、その場を見事凍らせると、
「…冗談だ、真に受けるな。」
 やはりぼそりと呟いてから、その場に凍りついた“イツモフタリデ”様方をやり過ごし、先にすたすたと母屋へ向かって行ってしまう君であり。颯爽としていた細い背中を見送って…幾刻か。

  「冗談が言えるようになられたんですねぇ。」

 関心なさるのはそこですか、さすがはおっ母様。
(苦笑) 到底笑えるような代物ではなかったし、あの凄腕が言うのだから…それこそ冗談抜きに“洒落にならない”お言いようでもあったのだけれど。会話に余剰というもの、持ち込めるほどになったは、確かに紛ごうことなき進歩成長であり、
「結構、貫禄もついて来ましたねぇ。」
 甘えたなところばかりを特に見せられて来た七郎次には、真っ向から睨まれただなんて、これまでには覚えもなく。それがために驚きもひとしおだったらしかったが、まま、よくよく思い返せば、熊退治や鮫退治にと威容を込めし刀を振るう身。あのくらいの迫力なぞ、その身へまとえても不思議ではない。とはいえ、相手を選んで発動されるものだろにとも思えば、
「あんまり甘やかしてらっしゃる反動でしょうかねぇ。」
 自分はともかく、勘兵衛へまでの激高ぶりだったのへと、くつくつ微笑った元・副官へ。お前にだけは言われとうないと言いたげなお顔をなさる元・上官殿であったものの、
「二人きりとなる旅先では、それは睦まじくお過ごしなんでしょうな。」
 そうと続いた言いようへは、
「何の、日頃も結構、ああいう態度は取っておる。」
 苦笑混じりに応じた勘兵衛様であり。とはいえ、笑いじわの寄った目許にたたえられし、その眼差しはあくまでも柔らかで。叱られてしまったことさえも、珍しい体験、甘露甘露で済むらしい。先に立ち去った久蔵の姿の残像を追うようにして見やった視線は、何とも言えず優しくて。終始、実直頑迷にして生真面目でいたとばかりは言えなかったお人だが、それでも…自分に幸は縁がないと、昏い眸ばかりしていた、口の端でしか笑わなかった頃に比べれば。その、他意無く楽しげな横顔の、なんと幸せそうなことか。見ているこちらまでが胸の底から切なくも暖かくなる、しみじみとした笑顔であり、

  “お御馳走様ですvv

 御主の上へやっと訪れた幸いと安寧を、ともすれば彼以上の暖かな感慨でもって、深く感じ入ってしまう七郎次でもあった。





            ◇



 侍としての腕を見込まれての、何かしら依頼があって訪れた土地である場合は、着いたそのまま、関係筋から事情を聴いたり現場に案内されたりという“現状把握”にと動き出すことが多いのだが。本来の彼らの旅の目的、湯治場で湯に浸かり、久蔵の右腕の能力回帰の治療に専念するという、それだけのために訪のうた土地の場合、当然っちゃあ当然のことながら、それはそれはのんびりと構えて過ごす彼らであり。当初はギブスを外した腕が何とも心許なくて。その反面、早く刀を握りたい気持ちも押さえ切れず。そんなアンビヴァレンツからの癇癪を内に溜め、腹の中で苛々を悶々と噛み殺していた時期もあったらしいが、

  『…そんな下らぬ虫を飼うでない。』

 さすが、年長者(と書いてタヌキと…読む?)は しっかと見抜いておいでであり。暴れたければ儂がいくらでも手合わせの相手をしてやろう。叫びたければ叫べばいい。誰にも聞かれとうないならば、山の中でも孤島でも、どこへでも連れてってやろうから、と。豪気なことを言ってのけ、そのまま旅支度を始めたのを見て、
『…。』
 こちらに向けられた背中に抱きつき、頬を寄せ。何度も何度もかぶりを振って…鬱屈の虫、見事振っ切った久蔵であったとか。

  『前にシチが言うておった。』
  『? なんと?』
  『島田はいつまでも俺を待っててくれると。』

 だから、気の逸りからつまらない癇癪を起こすものではありませんと、宥めてくれた優しい人。そんなして励ましてもらったこと、忘れるところだったと反省したらしく。おいおい誰へ感謝しとるのだと、人と場合によっては怒られそうなお言いようをした久蔵へ、
『そうか、そんなことをの。』
 あれは本当にお前には親身になっておったからのと、やはり感じ入ったように言葉を重ねてやり。そんな七郎次の得意技を思い出してか、向き合ったそのまま額と額をこつんこと合わせつつ、旅先からのごめんなさいとありがとうを、気立ての優しい槍使い殿へ届けとばかり、念を飛ばしてみたりもし、と。ご本人たちは至って真面目でも、傍から見る分には…単なる甘甘バカップル風味のごちゃごちゃを、繰り広げてもいたらしき彼らであり。まま、あまり露出狂の傾向
(きらい)はなかった二人だったので、人目も憚らずという勢いはなく。人前ではあくまでも、背中まで延ばした蓬髪に、渋味の滲んだ風貌も落ち着き払った、どこぞかの趣味人風に納まり返った壮年と、嫋やかにして臈たげな美貌も冴え冴えと、楚々とした、若しくは寡黙な連れという図で通していた、彼ら二人であったのだけれども。

 「…。」

 二人きりというのは時に一人と一人にもなり得ると、至極当たり前なことをわざわざ気づかされることがたまにはあって。互いを認め合った間柄には違いなく、信頼もしている。だが、それでも…別々な身の中にそれぞれの意志を持つ二人である以上、相手のことが読めず見えずのままに仲たがいとなることも ままあって。
「…。」
 寄り添い合ったまま同じものを見、眸と眸を見交わすだけで意が通じる。そんな“特別”へとそれは甘やかな想いをしたり、はたまた彼らの場合らしくも、互いの背中を預け合い、やはり見交わし合った視線ひとつで間合いを揃え、それぞれの正面の敵を平らげ合ったり。そんな以心伝心をもってして、相手を我が身同然と理解し尽くしているものと思っていた矢先。まだまだそんなところへなど到達していないと、甘んじるなということか、思わぬ齟齬にあったりもして。
「…。」
 昨日の午後に到着したばかりな新しい宿。物資輸送の運搬船に便乗させてもらっての道行きは、歩かなかった分は早くて楽ではあったが、体のあちこちが妙な格好で少しずつ消耗もしたようで。しばらくの逗留となる土地、いつもなら着くとそのまま物見気分で宿周辺を歩いてみるものを、そんな気になれぬまま二人、今朝まで部屋にて過ごしたから、何かしらあれば気づくはずだが。
「…。」
 山間の宿を囲む瑞々しい緑と、その背景に果てなく横たわる雄大な峰々を大きく望める眺望が見事な、それは明るい二間続きの部屋の向こうとこっち。せっかくの広さを勿体ないと思ってのことか、二人、互いの居どころ同士の距離を大きく開けていて。その先にあるのは…無言のまま“近寄るな”と主張し続けている冷然とした横顔だったりし。今は吊り下げる装具を外している右の腕との両手がかりで、窓の桟に頬杖をつき、外を眺めている様子を装って、こちらへずっと棘のある意識を向けて続けている久蔵であり。だが、一体どうしてそんなことになっているのかが、勘兵衛には判らない。昨日はずっとさしたる距離も置かぬままの一緒にいて、何が起きたか何を見たかは共有のことばかりという1日をすごした。だからこそ、判っているつもりだったその中に、彼がこうまで臍を曲げて怒るようなことがあったなどとは、一向に心当たりがなく、ただただ困惑するばかり。ぷいっとそっぽを向かれ、寄ればスルリと逃げられる。執拗に追うような構えをとろうとすれば、キッと射貫くような眼差しで睨まれ、それ以上を踏み込めず。それからのずっとを、彼の静かな怒り、何にかへの憤懣へ、已を得なくのお付き合いをしている訳ではあるが、
“…一体何が気に入らぬというのだろう。”
 くどいようだが覚えがない。此処へ来る直前までいた土地では、土地神の名を騙っての略奪を繰り返していた小悪党一味の集団を、たったの二人で一網打尽にするという依頼を片付けていた彼らだったので。ささやかなそれながらも緊張感の中に身を置きの、質は大したものではないながら量でカバーされし それなりの殺陣回りもやっつけのと、思い切り暴れたばかりとあって。一仕事終えたという晴れ晴れとした顔をしたそのまま、何の余情を持て余してだか、積み荷の狭間とはいえ明るい開けた場で身を擦り寄せて来、珍しくも甘えて見せたほどの彼の現金さにこそ、こちらは苦笑が止まらぬほどであったのに。宿へと着いてからも、自分は元気であることを持て余し、これだから壮年は…という顔をし、連れを残しての独りで、冒険だか探査だかのお出掛けをするでなく。今よりもっと間近いところから、外を眺めたり、時々はこちらを見やり、霞むような柔らかい笑い方をし、いかにも機嫌がいいことを伝えて来。晩は晩で………ままそんな1日の末のこと、それなりの甘さと濃さの睦みもあったりなかったりしたというのに。苦衷の根源を探りつつもついつい、さりげなく惚気てしまうほどの、そんな夜が明けての朝一番から、いきなり“これ”である。まさかとは思うが自分の夢で見た内容で勝手に怒っているとか、自分を抱いて眠りながらの寝言に勘兵衛が七郎次を呼んだとか、そんなことを言い出されたらもうもう打つ手はないけれど。いくら何でもそこまでの我が儘な怒り方はさすがにしなかろうとも思われて。そして、となると…思いつくものはもはやなく、よって立つ瀬もないという、思考の堂々巡りをするしかなくて。
「…。」
 そりゃあ、自分はあの気立てのいい槍使い殿のように細かく気が回る方ではなく、更に言えば人へと踏み込むのも踏み込まれるのも避けて通って来た身。よって、それが相手を凌駕せんという場合にての思惑の読み合いならばともかくも、誰ぞの想いを酌み取るのは大の苦手でもあって。
「…。」
 じっとその姿を見やり続けていることへさえ険のある目線を寄越すので、手元に開いたここいらの出来事を綴った読み物新聞へと視線を落としているのだが。それでも時折、外をぼんやりと望んでいる横顔や肢体へと眸をやれば。萎えたそのまま丸めた背中や、ちょいと不機嫌そうに尖ったお顔、やや横座りに崩された足元という、何とも行儀の悪い姿であっても。全身を視野へと収める機会は稀になっていたせいか、
“どんな恰好でいても絵になる美丈夫というのは居るものなのだな。”
 だなんて。こんな時でも、親ばかならぬ“女房ばか”っぷりが、しみじみとした感慨として滲み出す、元・惣領様だったりする始末。とはいえ、
「…。」
 無表情なまま窓辺にぺたりと腰を下ろしている様には妙に既視感があって。心から寛いでいはしなかろうがそれでも、湯治場ならではの簡素な和装という宿着姿になっている彼は、常のあの紅の上着をまとった姿よりもちんまりして見え。重ね着た丹前の覆うその細い背に刀はないところもあの時と同じであり。ああだが、あの時は警戒を解かずにいたゆえに、その懐ろに双刀を抱え込んでいたと思い出す。
『…。』
 神無村での合戦が収拾し、次の段階へと移行したこちらと足並みを揃えるかのように、事態は風雲急を告げ。我らとも関わりの深い、虹雅渓の差配の跡取り養子だった男が、新しい天主の座へと就いて。こちらの動きと彼の思惑が再び錯綜し、剣呑な流れへと動き出していたことを危惧し。これも追放とされたか、刺客から匿ってやった元・差配殿から新しい天主の思惑を聴取していた晩のこと。此処の褪めたものとは雲泥の差、それは青々とし、なめらかな感触のした畳の上へ、無造作に散らかした長い裾の合間から、膝を立てていたことで黒地のスパッツに覆われた健やかな脚が伸び伸びと出ているのを意にも介さず。外への警戒をしながら、それにしては至って音無しの構えにて。我らと同座していた彼であり。窓の向こう、蛍屋自慢の中庭が夜陰に没したその中に、端然と浮かび上がっていた白い横顔が、月から降りた蒼い光をまとうことで更なる静謐を帯びていたにも関わらず、
『…まだ仕事が残っていると。』
『待たせるな。すまぬ。』
 またしても引っ張り回すのかという運びを確かめたにしては、怒ってなどいないということか、その口許へふっと微かに笑みを含んだ彼だったようにも見えた。口では仲間になった覚えなぞないというよな、距離を置いたような言い方をしておきながら、練達の身であればこそ覚えのある配慮を敷いただけという以上に、そう…単なる戦さの段取り以上に、こちらの意を酌んで動いてくれていた彼でもあって。
“あの時は…。”
 互いを見やるだけの間合いをおいてあっても、相手の思惑は届いていたし、大事への仕儀を預け切っても一向に不安はなかった。またしても例えに上げて気の毒ながら、長年の付き合いとその蓄積あっての阿吽の呼吸と信頼を置いていた七郎次には到底並ぶべくもないほどに、まだまだ関わりの浅い身。勘兵衛の刀の腕にのみ惹かれて寄って来ただけという、その素性や人性も、戦歴さえろくに知りもしない存在であったのに、だ。
“まま、あの時は場合が場合であったしの。”
 それでなくとも緊迫していて、互いの感性とやらもぴりぴりと尖り、これでもかと研ぎ澄まされていたことだろうから。進むべき方向だって限られていての意志の疎通、尋常でないほどの合致となめらかな対応を見せても不思議はなく。他者への関心が薄かったところが選りにも選って似た者同士だった自分たち二人だ、読み取れないこと多かりしであってむしろ当然なのかも知れぬと、そんな心境にまで至りかかっていた勘兵衛のすぐ傍らへ、
「…?」
 気が逸れていたから気づけなかったか、いつの間にやら…気を揉んでいたはずのそのお相手が、こちらへ陰を落とすほどにも間近まで、その身を運んで来ていたものだから。
「…久蔵?」
 いよいよもって、何が不満かを言上しに参ったものか。それにしては、いきなり距離を詰め過ぎではなかろうかと、相変わらず予測のつかぬ相手へと、それでも意を合わせてやるべく、すぐ傍らに座していた大きめの卓から身を離し、向かい合うようにとそちらへ体を向けたのとほぼ同時、

  「…。」

 ほとんど触れるほどにもの間近の畳へ、すとんと膝を落としての着座をし。そんな立て膝のままにて、こちらの膝へのしかかる恰好での“あと一歩”を踏み込んで来るのは、実を言えば勘兵衛の側でももう慣れた、冷淡寡黙な彼には意外なそれながら、らしいと言っちゃあらしくもある大胆不敵な甘え方でもあって。いやいや今は何にか怒っておる彼だから、抗議の叱責を振り落としに来たのかも。何にも言われぬよりは歩み寄りの兆しでもあろうからと、抗いもせずに待ち構えておれば。やはりお膝の上へとのし上がって来た痩躯は、そのまま馬乗りとなって、これ以上はなかろう至近にての差し向かい。それ以上はなかろう…と思っておれば、それをも裏切りたくてのことか。絹糸のような金の髪に縁取られ、表情は乏しいながらも色白端正で、勘兵衛が飽かず眺めていたがる愛しいお顔が、ずいと…その傍らから起き出してからを数えれば、そろそろ半日ぶりとなる間合いを経て、間近へと戻って来。
「…久蔵?」
 何を見つけたか、いやさ何を見つけたいのか。赤い双眸や妙齢の娘御にも劣らぬなめらかな頬、脆そうで細い峰がすっと通った鼻梁に、肉薄だが羽二重餅のように頼りない柔らかさが緋色に染まりし口許などなど、どれを取っても麗しの玲瓏な美貌に満ちたる顔容
(かんばせ)が。じりじりと、だが衒いなく、こちらの顔へと近づいて来ており。あと少しで触れそうなまでへと近づいたのと同時、こちらも淡い色合いのまつげがふっと、眸の縁、頬の端へと臥せられた、その甘やかな誘いにうっかりと呑まれてしまい。その先を予測しながら、こちらも眸を伏せた 元・惣領殿へ、
「…。」
 何が原因なのやら、傍らへさえ寄せずにいたほど怒っていた男の唇へと。小鳥の羽根の先での擽りのような軽やかな吐息が触れてすぐ、柔らかで瑞々しい感触が続けざまに触れて来て。ただ触れただけに収まらず、拙い所作ながら、何度も啄むような繰り返しでもってもっと深く絡まりたいとの意向を伝えて来たものだから。少しではあれ経験値は上、薄く唇を開いて招き入れれば、少しは慣れ始めていた肉薄な舌が向こうから躍り込んで来た…のだが。

  「…っ☆ 〜〜〜〜〜っ!」

 気の高ぶりを少しでも収めてくれればと応じた甘い口づけは、冗談抜きに甘くて甘くて。蜂蜜かそれ以上の途轍もないだだ甘さが、容赦ない威力で勘兵衛の口の中を蹂躙してゆき。この彼の突拍子のなさは今更なこと、何でも我慢できると思っていたが、好き嫌いはないながら、甘いものだけは苦手な勘兵衛。これは堪らぬと懐ろにむしゃぶりついて来ていた体ごと、強引に久蔵を引き剥がす。後にも先にもこんな勿体ないことをしたのはこの折 限りという、少々情けない回顧がのちのち語られるのも、まま今はさておいて。
「久蔵〜〜〜。」
 何をするかと睨みかけて、だが。

  「…っ。」

 一応は気を遣ってのこれでもそっと、肩を掴んで引き剥がした悪戯の張本人が、逆にうっそりと睨みつけて来た赤い眼差しから。そうかそれで怒っておったかと、今やっと気がついたことがあって。

  「すまぬ。」
  「…。」

 そう、それは今朝方のこと。もうもう深くは言わぬが…甘い疲れが尾を引いてのこと、年若な久蔵の方が起きられぬままの遅寝をしていたその間。随分と早くに目覚めた暇に任せて、昨日は出なかった宿周辺へと散歩に出ていたらしき勘兵衛であり。早朝の鄙びた風景の中を満たす、真新しき風や緑の息遣いなどなどという、爽やかに瑞々しき気配を負って戻って来たその微かな物音にて、やっと目覚めた若い奥方。連れ合いの精悍な匂いが居残る暖かな衾にくるまったまま、微睡みと転寝の境目を文字通りの夢見心地で堪能していて。そこへ戻って来た愛しい伴侶の実体だ。ささ、その充実した腕で掻き抱だいておくれ、まだ眠っておったのかと呆れつつも甘やかしておくれと、寝ぼけ半分、だからこその無防備な甘えの滲んだお顔で待ち構え、迎え入れた朝一番の接吻が。これまでに味わったことのない、アクの強いそれだったものだから。丁度今の勘兵衛がそうしたと同じに、のたうつようにもがいて唇を引き剥がし、それからのおかんむり状態だった久蔵で。そしてその原因というのが、

  「煙草、か。」

 うっかりしていたが、罪悪の伴われるものとも思わなかったからこそ気がつかなかったもの。外から戻った宿の帳場前、此処の従業員だろうか、作業着姿の初老の男がそれは深々と紫煙を堪能している姿が目に入った。大戦中にあの副官の巧みな手際によって、相当なヘビースモーカーだったものを正されて以降、そういえば口にしないままでもう十年以上は経つ。別に欠乏から禁断症状が出るほどもの重症な常用者ではなかったし、口寂しいと思うこともなかったが、色々と満たされたこれも余波だったか、そんなささやかなものが目に留まり、人の善さそうな彼は“一本いかがですか”と快く勧めてくれたので、つい、本当に久々の喫煙を…。
「シチが1年かけて頑張ってやめさせたものを。」
「ああ。」
 この久蔵と七郎次、それは仲睦まじかった二人だったから、何かの折、大戦中のそんな話をした彼らでもあったのだろう。だから余計に…突然襲った苦々しい味への驚きに加え、それを思い出しもして。尚のこと腹が立った久蔵だったのに違いなく。
「習慣性のあるものだから、気をつけなさいよと言っていた。」
 今はそうではない間柄になって久しいというのに、かつての御主の体を思っての気遣いを忘れなかった、心優しい 元・副官。自分へもそれは優しく接し、何かと心を砕いてくれていた七郎次だったから。尚のこと、彼からの言いつけはどんな些細なものでも忠実
(まめ)に守っていた久蔵でもあり、
「…。」
 相手のお膝にまたがっての、膝立ち&仁王立ちという。一見しただけだと、怖いんだか甘いんだか、もしかして淫靡なんだか、良く分からない態勢ながらも。間違いなくご本人は大威張りのお説教態勢で見下ろして来るのへと、
「…すまぬ。」
 背中を伸ばしての真摯な態度。入隊したばかりの頃だとて、上官へこうまで姿勢を正したことはないぞとの構えを取って見せれば。その剛い眼差しに ようやっとほだされてくれたのか、
「…。」
 またがってた態勢のまんま勘兵衛のお膝へ腰を降ろすと、真向かいとなる胸板へほてりと凭れる。そのまま額をすりすりと擦り寄せて来る彼だとあって、やっとのこと、胸を撫で下ろした元・惣領殿。手前の卓から湯飲みを持ち上げ、ぬるくなっているから丁度良かろうと懐ろ猫の口元へと運んで差し上げれば、
「ん…。」
 さすが、何も言わずとも意は通じ。相手へお持たせのまま、湯飲みの縁へ口をつけると、少し苦いめのお茶をこくこくとゆっくり飲み下すことで口の中を濯いだ久蔵であり。
「あんな甘味を、常に持っておったのか?」
 飴か はたまた安手の干菓子であったか、甘さばかりが濃縮されていたとんでもない代物で。食べることへも淡白な久蔵が、そんな嗜好品の類いを常備していたとも思われぬと訊けば、
「運搬船へ乗り込む折、村の子供から。」
 村を助けて下さったお侍様への餞別にと、そぉっと差し出されたものを素直に貰った彼だったらしく。
「こんなことへと使いたくはなかったが。」
「…そうだの。」
 今日ばかりは久蔵の側の言い分ばかりが正しくて。重ね重ねにごめんなさいと、懐ろの中、ちょこりと収まっている愛しい伴侶の真白な額へ、啄むような接吻を落として…せいぜい嫌がられていればいいと思った、これでもおっさまが一番好きな筆者だったりするのである。ここに七郎次殿がいたとしたなら、やはり同じことを思ったに違いない。


  ――― ああもう、お好きなようにやってなさい、と。





  〜Fine〜  07.2.18.

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  *こ〜んなだだ甘い話を、
   お天気のいい午前中いっぱいかけて書き続けた私こそ、
  “やってなさい”と呆れられてしかるべきかも知んないですね。
(苦笑)

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